デジタルビジネス本部
※所属は執筆時点(2026年8月)のものです。
広告の仕事を始めてから、クリエイティビティとは何かを考える時間が増えました。学生の頃は、それを自由さのことだと思っていました。枠にとらわれない発想、誰も思いつかない飛躍。しかし実際の現場は、制約の塊でできています
偏りだけが、私たちに残っている。
広告の仕事を始めてから、クリエイティビティとは何かを考える時間が増えました。学生の頃は、それを自由さのことだと思っていました。枠にとらわれない発想、誰も思いつかない飛躍。しかし実際の現場は、制約の塊でできています。予算があり、納期があり、レギュレーションがあり、決裁がある。自由な発想を、と言われる会議室ほど、実は不自由な場所はないと感じます。
それでも人は跳びます。むしろ、条件が厳しいときほど跳ぶ。この逆説を何度か目にするうちに、クリエイティビティとは無から何かを生む力ではなく、制約の中で他の人が見落とした抜け道を見つける力なのだと思うようになりました。
では、抜け道はどうやって見つかるのでしょうか。全員が同じ条件を前にしているのに、ある人にだけ別の道が見えるのはなぜか。それは、その人が偏っているからだと思います。
同じ課題でも、人によって引っかかる場所が違います。言葉の据わりの悪さが気になる人、ターゲットの呼び方に納得がいかない人、そもそも前提を疑う人。この引っかかりは論理ではなく、その人がこれまでに何を見て、何に傷つき、何を美しいと思ってきたかの蓄積からくるものです。極めて個人的な偏り。私はこれをエゴと呼んでいます。
エゴという言葉には身勝手な響きがありますが、これは自由の反対側にあるものだと思います。エゴがある人は、選べません。どうしても引っかかってしまうから、そこを素通りできない。全方位に均等でいられないという意味で、エゴは紛れもなく制約です。
そして跳躍は、その制約に押し出されるようにして起こります。ここが引っかかる、だから他の道を探す。探しているうちに、誰も通っていない場所に出る。あとから振り返れば鮮やかなジャンプでも、本人にとっては迂回でしかなかったりします。合議で角を落とした案が印象に残らないのは、誰も引っかからなかったからでしょう。全員が納得できる道は、すでに舗装されているのです。
生成AIが案をいくらでも出せるようになって、この考えはむしろ強くなりました。AIには引っかかりがありません。だから何案でも平然と並べられますし、どれも整っています。整っているのに跳ばないのは、避けたい場所を持っていないからだと思います。
だから私は、自分のエゴを丁寧に扱いたいと思っています。それは我を通すことではなく、自分が何に引っかかるのかを知っておくということです。この表現がなぜ嫌なのか、この言い方がなぜ嘘くさく感じるのか。言葉にしておかないと、会議では単なるわがままにしか聞こえません。逆に言語化できたとき、それはチームで共有できるアイデアになります。
クリエイティビティとは、エゴという制約から生まれるジャンプのこと。少なくとも今の私はそう考えています。数年後には別のことを言っているかもしれませんが、そのときはそのときで、また何かに引っかかっているのだと思います。









